莫大小と書いて、メリヤスと読む靴下の話

靴下のルーツをぼんやり辿っていたときに、「メリヤス」という言葉に行き当たった。メリヤス自体はべつに珍しいものではない。ホームセンターの売り場へ行けば、油に汚れた機械を拭くためのウエスとして無造作に積まれているし、靴下業界の人なら普通に使っている言葉かもしれない。でも普段の生活で、靴下として耳にすることはない。
しかも漢字で書くと「莫大小」。最初に見たとき、靴下とはまるで関係のない言葉に思えた。中国の古い熟語みたいでもあるし、どこか観念的ですらある。でも調べてみると、ちゃんと理由がある。メリヤスとは編み生地の総称で、ポルトガル語の<meias>から借りた言葉らしい。編み生地だから伸縮性がある。多少サイズが違っても履ける。だから「大小なし」。その意味を漢字にして「莫大小」。なんだか洒落ている。
こういう言葉の付け方は好きだ。理屈だけではなく、そこに遊び心がある。昔の人は、漢字をつけるのが上手かったように思う。と、言うと少し偉そうかもしれないけれど、今の言葉はたいてい説明的だ。「吸水速乾」とか「伸縮素材」とか。もちろん分かりやすい。でも「莫大小」には説明より先に否定がある。大小なしが、伸び縮みすることを意味し、それをメリヤスと呼び、さらには靴下のことを指す。ひねりすぎな気もするけども、そういう言葉に出会うと、少しだけ得をした気持ちになる。
僕は靴下というものが案外好きだ。もちろん、熱心な靴下愛好家というわけではない。靴下専門店を巡る趣味はないし、豊富な色柄を履きこなすような小粋な装いをしているわけでもない。ただ、あれやこれやと探しては履いて、また探して、ということを繰り返すくらいには靴下難民をしてきた経験則がある。多種多様な靴下を体験してきただけに、思いを巡らせる機会が存外多かったのかもしれない。
<KIMURA`>の靴下に出会ってからは頭を悩ますことがなくなった。無地か太リブの2種類しかなく、柄もブランドのロゴも入っていないという潔さ。それでいて色彩は豊かで見ていて楽しくなる。履き心地が抜群に良く、足を通した瞬間に「ああ、これでいいんだ」と思わせてくれる。厚みも絶妙で、革靴にもサンダルにも自然に馴染む。履き心地の良い普通の靴下。言葉にすると簡単だけども、これがあるようで中々無い。
靴下は不思議な道具だと思う。装いというファッションの要素もあるけども、基本的には機能性が求められ、自分の皮膚の一部のように足に張り付いている。靴下がごろつくと落ち着かないし、履き心地が気に入らないと、その日はずっと調子が悪い。逆にぴったりと自分に合う靴下を履くと、何だか足取りが軽くなったような気持ちになる。たぶん人は、自分で思っている以上に足元に左右されている。
映画監督の小津安二郎も靴下にこだわっていたらしい。銀座に出ると気に入った海外製の靴下をまとめ買いしていたという伝聞を読んだことがある。なんとなく分かる気がする。靴下に限らず、お気に入りのモノというのは突然手に入らなくなることがある。素材が変わったり、色柄が変わったり、製造中止になったり。そして代わりは意外と見つからない。だから見つけたときに買っておく。それはペンや珈琲豆を買うのと少し似ているかもしれない。
「人間にはさまざまタイプがあるように小道具も違う。私はその人の個性にあった小道具をみたてる意味で慎重に小道具係とうちあわせる。」
小津らしい言葉だと思う。小津の映画を観ていると、人よりも小道具に目がいってしまうことがある。薬缶とか、鞄とか、煙草とか。どれも強く主張しているわけじゃない。画面の中に自然と溶け込み、登場人物の人となりを底支えしている気がする。
僕は店で道具を扱っているので、「良い道具ってなんだろう」と常々考える。長く使えるものとか、美しいものとか、もちろんそういう条件はある。でも最終的には、その人の生活に自然と溶け込むかどうかなんじゃないかと思う。つまり、存在を忘れられるくらい自然であること。靴下はまさにそういう道具だ。一日中意識しないで済む靴下は良い靴下だし、逆にずっと気になる靴下はきっと身体に合っていない。
メリヤスという言葉の“大小なし”には、昔の道具のおおらかさがどこか残っている。少しくらい曖昧でも大丈夫。人が道具に無理に合わせるのではなく、靴下の方が足に寄り添ってくれる。その感覚は、効率や正確さばかりが求められる今の世の中にあっては、少し新鮮ですらある。莫大小/メリヤスには、そんな日常のゆとりのようなものが編み込まれているのかもしれない。
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